サステイナブル・デザイン

モダニゼーションとモダニズム

まず僕の時代認識から述べておきたい。大きく振り返れば、20世紀は急速なモダニゼーション(近代化)の時代だったと思う。モダニゼーションの萌芽は15世紀に遡るが、本格化するのは19世紀になってからであり、20世紀になると、それがさらに加速化した。建築におけるモダニゼーションは20世紀初頭にモダニズム(近代主義)建築運動として姿を現わし、第2次大戦後に最盛期を迎えた後、1960年代末に終末を迎えた。1970年代にはモダニズムに代わってポストモダニズム運動が勃興したが、その後の展開を見ると、ポストモダニズム運動とは急速なモダニゼーションに対する反省がもたらした一時的な休止だったことが分かる。1990年代になると再びモダニズムを見直そうとする動きが出現するが、それはモダニゼーションという大きな底流が、現在も依然として持続していることの表われである。
僕の考えでは、「モダニゼーション」と「モダニズム」とは区別しなければならないと思う。モダニゼーションとは、15世紀に始まり現代も継続している時代の大きな底流である。モダニズムとは、それが思想的・文化的運動として表面化したものである。モダニゼーションには大きく分けて政治的、経済的、文化的の三つの局面がある。平たくいえば、政治的モダニゼーションとは啓蒙思想に支えられた議会制民主主義の歴史である。経済的モダニゼーションとは技術の進展に支えられた資本主義の歴史である。文化的モダニゼーションとは合理主義思想に支えられた科学の進展と個人主義の歴史である。
20世紀を振り返ると、モダニゼーションはそれぞれの局面で反動的な運動を引き起こしている。政治的局面では全体主義が、経済的局面では社会主義が、文化的側面ではポストモダニズムがそうである。しかし、これらは急速なモダニゼーションに対する反省の産物であり、必然的な付随物であった。僕たちは、モダニゼーションという大きな時代の流れの「外部」に立つことはできない。建築についても同じである。昨今のモダニズム建築運動の再評価は、そのような文脈でとらえることができる。
以上のような前提に立つなら、21世紀の課題は、全体主義ポストモダニズムのような反動的な態度に陥ることなく、モダニゼーションの成熟がもたらすさまざまな問題に対して、どのように取り組むかということだと思う。建築的な課題は大きく三つある。第一はIT(情報技術)と建築の関係の問題、第二は高齢化社会における建築のあり方の問題、そして第三は建築におけるサステイナブル(持続可能な)デザインの問題である。それぞれが大きな問題だが、僕としては第三のサステイナブル・デザインに注目したい。前二者にはすでに多くの人たちが取り組んでいるが、サステイナブル・デザインはまだ萌芽期にあり、これからその方向性を探る段階にあるからである。

サステイナブル・デザインとコンバージョン

サステイナブル・デザインとは、地球環境を守るという視点から建築デザインを見直そうとする運動である。 先頃、僕はアルミニウムを主構造とする実験住宅「アルミエコハウス」の開発に取り組み、その経験を通してサステイナブル・デザインの広大な可能性の一端に触れることができた。20世紀初頭に勃興し世紀のデザインの方向を決定づけたモダニズム建築運動と同じように、サステイナブル・デザインは21世紀初頭の最大の建築運動として、21世紀の建築デザインの方向性を決定づけるような予感がしている。両者はテクノロジーの進展がもたらした社会的な問題を解決するために、テクノロジーのあり方を再検討し、それによって新しい建築デザインを生み出そうとする点において、同じような問題意識を持っているからである。
建物のコンバージョン(転用)はサステイナブル・デザインを構成する重要なテーマのひとつである。これまでのように既存の建物を解体して新たに建物を建てるというスクラップ&ビルドではなく、既に存在する建物を別の機能の建物にコンバートするという考え方は、これからのデザインの大きな潮流になることはまちがいない。
コンバージョンには、既存の建物に最小限の手を加え、別の機能に変えることによって建物を延命させるという消極的なデザインから、機能を変えると同時にさらに高性能な建物に変えていくという積極的なデザインまで、幅広い範囲が含まれる。欧米では既にコンバージョンはさまざまなかたちで試みられ、コンバージョン産業として成立している。しかし日本ではまだまだ端緒についたばかりである。日本の近代建築の歴史はまだ150年そこそこしか経過していないが、戦後の高度成長の中で、コンバージョンを適用する建築的ストックは急速に蓄積されてきた。さらに昨今のオフィスビル建設ラッシュは、都心の古いオフィスビルを急速に空室化させて、かつてのオフィスビル街は活気を失い初めている。そうした空きオフィスビルを、集合住宅を中心とする複合ビルにコンバートし集合化させることによって、沈滞したダウンタウン活性化させようとするのが、コンバージョンの最終目標である。
とはいえコンバージョンは、さまざまな条件が絡み合った複雑で理解しにくいテーマである。コンバージョンを成立させるには、所有権や用途変更などの法律的問題、ファイナンスの問題、技術的な問題など複雑な問題を解決しなければならない。社会の目をコンバージョンに向けるには、こうした複雑な条件を解きほぐすことと並行して、コンバージョンによって建物や街並みがどのように変わるのかという分かりやすいイメージを提示することも重要である。さらに未来の建築家にとっては、サステイナブル・デザインは必要不可欠の視点である。したがって建築教育もサステイナブル・デザインの視点から再編成しなければならない。この二つの目標を達成するために、僕たちはコンバージョンを建築学科の設計課題に取り上げることを試みた。設計課題では、都心の空きビルの調査からスタートし、コンバージョン技術の収集と建物への適用、集合化による街並みの変化に至るまでのケーススタディを試みた。こうした試みを通じて、今後は、コンバージョンの多面的な問題を明らかにし、デザインの新しいテーマの開拓を試みたていきたいと考えている。

サステイナブル・デザイン

サステイナブル・デザインの可能性

難波和彦

まず僕の時代認識から述べておきたい。大きく振り返れば、20世紀は急速な近代化(モダニゼーション)の時代だったと思う。近代化の萌芽は15世紀に遡るが、本格化するのは19世紀になってからであり、20世紀になると、それがさらに加速化した。建築における近代化は20世紀初頭に近代主義(モダニズム)建築運動として姿を現わし、第2次大戦後に最盛期を迎えた後、1960年代末に終末を迎えた1970年代にはモダニズムに代わってポストモダニズム運動が勃興したが、その後の展開を見ると、ポストモダニズム運動とは急速な近代化に対する反省がもたらした一時的な休止だったことが分かる。1990年代になると再びモダニズムを見直そうとする動きが出現するが、それは近代化という大きな底流が現在も依然として持続していることの表われである。私見では、近代化と近代主義とは区別しなければならない近代化とは15世紀に始まり現代も継続している時代の大きな底流であり、近代主義とはそれが思想的・文化的運動として表面化したものである。近代化には大きく分けて政治的、経済的、文化的の三つの局面がある。平たくいえば、政治的近代化とは啓蒙思想に支えられた議会制民主主義の歴史である。経済的近代化とは技術の進展に支えられた資本主義の歴史である。文化的近代化とは合理主義思想に支えられた科学の進展と個人主義の歴史である。20世紀を振り返ると、近代化はそれぞれの局面で反動的な運動を引き起こしている。政治的局面では全体主義が、経済的局面では社会主義が、文化的側面ではポストモダニズムがそうである。しかしこれらは急速な近代化に対する反省の産物であり、必然的な付随物である。したがって僕たちは近代化という大きな時代の流れの「外部」に立つことはできない。建築についても同じである。昨今のモダニズム建築運動の再評価は、そのような文脈でとらえることができる。

こうした前提に立つなら、21世紀の課題は、近代化の成熟がもたらすさまざまな問題に対して、反動的な態度に陥ることなくどのように取り組むかということだと思う建築的問題は大きく三つある第一はIT(情報技術)と建築の関係の問題第二は高齢化社会における建築のあり方の問題、そして第三は建築におけるサステイナブル(持続可能な)デザインの問題である。それぞれが大きな問題だが、僕としては第三のサスティナブル・デザインに注目している。前二者にはすでに多くの人たちが取り組んでいるが、サスティナブル・デザインはまだ萌芽期にあり、これからその方向性を探る段階にあるからだ。

先頃、僕はアルミニウムを主構造とする実験住宅「アルミエコハウス」の開発に取り組み、その経験を通してサスティナブル・デザインの広大な可能性の一端に触れることができた。20世紀初頭に勃興し世紀のデザインの方向を決定づけたモダニズム建築運動と同じように、サスティナブル・デザインは21世紀初頭の最大の建築運動として21世紀の建築デザインの方向性を決定づけるような予感がしている。

このような潮流を受けて、建築学会においてもサスティナブル・デザインに関するさまざまな委員会が創設され活動を展開しているが、その中でひとつ気になる傾向がある。昨年度の建築学会全国大会のシンポジウムでも感じたことだが、サスティナブル・デザインを地球環境を守る倫理的な運動としてとらえ、環境問題に関する工学的研究を通して、今後の建築デザインが守るべきコード(規約)をつくるべきだと考える研究者が多いことである。そこには工学的研究は客観的・匿名的であり、デザインは主観的・個人的であるという暗黙の前提がある。そのような前提から生み出されるデザインコードは、建築家の個人的発想を制約することになるだろう。事実、シンポジウムにおいても、そうすべきだと主張する研究者が多かった。彼らの考えによれば、近代建築は建築家の独断的なアイデアによってデザインされ、それが環境破壊を引き起こした大きな要因だから、今後は建築家の個人的なアイデアはデザインコードによってチェックされるべきだというのである。これは悪しきPC(ポリティカル・コレクトネスである。そのような考えは根本的に間違っていると思う。工学的研究は表面的には客観的・匿名的に見えるが、個人的発想なしにすぐれた工学的研究は生まれない。その意味で工学的研究はデザインの一種である。そのことは、たとえば昨今の構造エンジニアの仕事を見れば明白である。逆に、すぐれたデザインは客観的・匿名的な条件をふまえた主観的・個人的発想からうみ出される。多くの建築家が昨今のサスティナブル・デザインをうさん臭く感じているのは、個人的発想を欠いた陳腐な工学的研究がその背景にあるからである。僕としては、工学的研究に個人的発想を持ち込むことによって、サスティナブル・デザインからエコファシズム的傾向を取り除くとともに、サスティナブル・デザインを新しい建築の可能性を開く運動としてとらえ直したいと考えている。

八重歯やメガネが人気の理由

マンガ、アニメ、ゲームなどの2次元キャラの
チャームポイントや特徴としてよく描かれる「八重歯」や「メガネ」。
たとえば八重歯キャラには、『魔法少女まどか☆マギカ』の佐倉杏子や、
らき☆すた』の日下部みさおといった人気キャラがいますよね。
なぜ、八重歯やメガネの女の子が人気なのでしょうか。

「それは『八重歯』や『メガネ』といった特徴そのものに秘密があるのではなく、
人は珍しいものに対して価値をおく心理傾向があるからです」
と語るのは心理学者の内藤誼人(ないとうよしひと)先生。

人は珍しいものに惹かれる

「イタリアのトレント大学ルイージ・ミットンの実験によれば、
二人の人間にいくつかの商品を分け合うように指示したところ、
たとえ値段は安くても数が少ない商品を好む被験者が多いという結果が出ました。
人は希少性の高いものに価値を置く傾向があり、これを『希少性の原理』と言います。
メガネキャラが人気なのは、メガネをかけているキャラが相対的に少ないので
『希少性の原理』によって、その価値が高まっていると考えられます。
八重歯の女の子も少ないので、かわいく見えるんです」(内藤先生)

では、今後人気になるアニメキャラは、希少性のある特徴を持っているキャラということでしょうか!?
心理学的な見地から次に流行しそうなアニメのキャラを内藤先生に予想してもらいました!

「清楚で慎ましやかな女性はどうでしょうか?
最近のアニメやマンガの女性は強くて行動的に思えます。
ですから、やまとなでしこが登場したら流行るんじゃないでしょうか」(内藤先生)

人とは違う点をアピールすることが重要

内藤先生によれば「希少性の原理」は、
八重歯やメガネといったチャームポイントだけではなく、
ファッション、趣味、職業などでも成り立つので、ビジネスや恋愛においても活用できるそうです。

「合コンやビジネスで初対面の人と趣味の話になったとき、
ちょっと変わった趣味を持っていると良いアピールになりますよ。
例えば、皆が映画観賞だと答える中、一人だけ『ペットのうさぎとお散歩です』と言われたら、
ちょっと気になりませんか。初対面の人に、自分を印象づけたいときは、
周囲の様子をうかがいながら、希少性の高そうな自分の売りを
アピールすると良い自己紹介になるはずです」(内藤先生)

4月になると新年度を迎え、社会人になったり、新たな部署に異動したりと
人間関係をゼロから構築する機会も増えることでしょう。
「新天地に早く馴染みたい」、「メンバーに自分を印象づけたい」と思う人は、
希少性の高い趣味をアピールしてはいかがでしょうか。
といっても、三次元の世界では人の印象を与える要因はさまざま。
二次元の世界ほど効果的ではないので、注意が必要なようです。

就活日記

就職活動のジレンマ

 

いろんな会社をみてるけど、

どの企業も同じ印象ばかり受ける。

 

なんか面白そうな会社かな。

OB訪問をする。

「うちの業務はだいたいこんな感じです。」

 

そこで、いつも、

たぶん自分はこの会社に入ったら、

5年後にはこーなって、

10年後にはこーなって、

前に座って説明してる社員みたいな感じになるんだろう。

 

自分の未来が見えてしまう気がして、

じゃあ、この会社に自分が入る意味はなんなんだろうって思ってしまう。

 

そんなジレンマ。

就職活動で企業が求める人間

さっき、NHKのプロフェッショナルで

就活の特集やってた。

 

そこで、当たり前といえば当たり前だけど、

マイナビなどの情報過多のスマホLIFEに惑わされて、

就活してて見失ってたなー。って思ったことをちらほら。

会社が求める人間は

「人とは違うことをしたい人、そして、礼儀正しい人」

自分を成長させることができる人材こそ、会社を盛り上げてくれる人。

でも、いざ何か新しいことに挑戦するとなっても、ひとりじゃできない。仲間が必ず要る。

そんなときに、大切なのは礼儀。

礼儀のきちんとしている人は、他人は認めてくれる。

 

一緒に仕事をしたいと思える人は

「失敗談を話せる人」

本当に自分が失敗したことを話せる仲間こそ、一緒にやっていこうとなる。

 

仕事とは

「自分が就いた仕事が、天職」

会社に入ってやる仕事は、100%自分の思ったとおりのものなわけがない。

仕事が楽しくないのは精一杯やっていないから。

自分が一生懸命その仕事に打ち込めば、その仕事の面白みは自ずと見えてくる。

そこで特集されてたのは

会社に入ったら、

こうこうこういう感じの心構えで

仕事をしていくのがいいんじゃない。

みたいな内容だった。

 

就職をスタートとして、どう働くか。

が特集されてて、

 

ふと、

自分がときおり

就職=ゴール

みたいに考えてしまっている

ことに気づいた...

 

もう一度、じっくり考え直そう。

 

 

今、この時代に思うこと―斉藤隆夫粛軍演説―

www.youtube.com

 

我々が国家競争に向うに当りまして、

徹頭徹尾自国本位であらねばならぬ。

自国の力を養成し、自国の力を強化する、

これより他に国家の向うべき途はないのであります。

 

かの欧米のキリスト教国、これをご覧なさい。

彼らは内にあっては十字架の前に頭を下げておりますけれども、

ひとたび国際問題に直面致しますと、

キリストの信条も慈善博愛も一切蹴散らかしてしまって、

弱肉強食の修羅道に向って猛進をする。

これが即ち人類の歴史であり、

奪うことの出来ない現実であるのであります。

 

この現実を無視して、

ただいたずらに聖戦の美名に隠れて、

国民的犠牲を閑却し、

曰く国際正義、曰く道義外交、曰く共存共栄、曰く世界の平和、

かくのごとき、雲をつかむような文字を並べ立てて、

そうして千載一遇の機会を逸し、

国家百年の大計を誤るようなことがありましたならば、

現在の政治家は死してもその罪を滅ぼすことはできない。

 沖縄の基地問題報道ステーションの古舘・古賀さんの口論を見ていると、

どうも今の政治世界に立ち込める空気が、良くない方向に進んでいる気がしてならない。

 

就職活動で大切なこと

何をもって、道を決定するか。

 

人生で大きな選択をするときはとても迷う。

就職活動もそう。

どの会社に入社したいか。

 

5年後、10年後になっていたい自分を想像する。

そんな目標がない人は、

なんかこの人すごいな、かっこいいなみたいなひとでもいい。

 

そっから逆算して、今自分は何を選択すべきかを絞る。

 

何も就職がゴールなわけでもない。

どう会社を使って、自分を成長させることができるか、自分に知識を身につけることができるか。そう考えるべきだし、実際そう。

 

構造計画研究所の人が

働く上で大切なことは「人とのつながり」だと言っていた。

社会に出ると、いろいろな出会いがありそれを大切にできる人じゃないとやっていけない。だから、どの会社に就職したいかは、そこで働いている人をみればいい。

同じような話を新日鉄住金の人からも聞いた。

あとは、自分が今まで歩んできたことを考えて、将来役立ちそうなとこにするとか、

大企業だと転職とかもしやすいとか、

他にもいろいろあるけど、そんなのは小さいことで、

やっぱり大切なのは、どんな人と働くか。

 

6 degrees of separation という仮説がある。

Small World Phenomenon ともいう。

友達を6人ぐらいまたぐと世界中のだれとでも繋がるというもの。

人はいろんな人とのつながりをもっている。

どんな人と繋がるかで、自分の見える世界も変わってくる。

 

下のは、昨年、ユニクロに起用された

ジョン C ジェイさんの「これからの若者への10の教訓」

7番はそのことについて書かれてる。

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